■ まえがき ■ 2015年パリで行われたCOP21/CMP11において、2020年以降の新たな気候変動に係る国際枠組みを規定するパリ協定が採択された。パリ協定は京都議定書と異なり、全ての国が参加する画期的なものであり、市場メカニズムの活用やイノベーションの重要性も位置付けられた。COP26は新型コロナウイルスの感染の影響を受け、2021年11月に延期となったが、それまで未解決の課題・論点(例;市場メカニズムの実施細目等)の多くが解決し、各国は2050年におけるカーボンニュートラル、そしてそれを実現すべく2030年目標の引き上げに各国は取り組みを開始し、また気候変動問題への効果的、加速的対処を求める社会的な要請は、特に若い世代を中心に高まりを見せている。 当研究所では、過年度から京都メカニズムの会計・税務問題について調査研究を進め、国内排出クレジットに関する会計・税務問題についても幅広い調査研究を実施してきた。今年度も、これまでに蓄積してきた知見をベースに、会計・税務の観点を踏まえて、引き続き、気候変動に関する諸問題についての最新動向等について調査研究を行い、産業界さらにはわが国としての気候変動対策の推進に資することを本委員会の趣旨とする。 ■ 名 簿 ■
(五十音順・敬称略)
(令和5年3月現在)
(令和5年3月現在)
■ 第1章 開題 ■ 2022年度排出クレジットに関する会計・税務論点等調査研究委員会 開題――持続可能な社会とニコマコス倫理学――委員長 黒川行治 1.ウクライナ戦争,エネルギー危機,トルコ・シリア地震下での2回の研究委員会 2022年度(令和3年度)排出クレジットに関する会計・税務論点等調査研究委員会は,終結が全く見えないロシアのウクライナ侵略による世界的なエネルギー危機とインフレーション下,2022年12月19日に第1回研究委員会が開催された。例年どおり,第1議題として,高村ゆかり委員から「COP27の結果と気候変動に関わる最近の動向」と題する講演を,第2議題として,三菱UFJリサーチ&コンサルティングの吉高まりオブザーバーから「サステナブルファイナンスの最新動向」と題するご講演を,さらに,経済産業省の木村範尋METIオブザーバーから「COP27の成果と今後の動向」と題して,COP27の開催現地であるエジプト・シャルムシェイクの雰囲気や環境および地球温暖化対策に関する国際情勢など諸々のお話を伺った。 2023年を迎え,2020年1 月に新型コロナの出現が報告されて以来3年が経過し,先進各国の新型コロナへの恐怖もようやく薄らぎ,パンデミック対策の緩和も進んでいたところ,2月6日にトルコ南東部とシリア北部の広い範囲で強い地震が発生,さらに,2月20日にも再度強い地震が発生した。 2023年3月10日の朝日新聞朝刊3面には,世界保健機関(WHO)のまとめによると 3月5日までに世界でおよそ新型コロナに7億6千万人が感染し,約687万人が亡くなったとの報告が載っている。また,同新聞2面には,両国政府や国連の発表によるとトルコ・シリア地震で5.2万人が死亡したとする記事が載っている。前述のロシアのウクライナ侵略によるウクライナからの難民は,国連難民高等弁務官事務所によると2月15 日時点で807 万人を超えたとされている(NHK NEWS WEB 2023年2月20日)。 このような暗澹たる世界情勢の一方,平和な日本国内ではインフレーションに対する日銀の金融政策の動向と,実質賃金低下に対する春闘における労働者の給与の増加が目下のところの関心事項であって,人間社会の持続可能性に関する危機意識を醸成するのが困難であるとしてもいたしかたないのかもしれない。ともあれ,地球温暖化,マイクロプラスチックによる海洋汚染,熱帯雨林の消滅,生物多様性の喪失などの地球環境の悪化は着実に進んでいるのであり,気候変動対策を始めとする環境負荷物質削減の必要性は揺らぐことがないという信念のもとに3月10日に開催された第2回研究委員会では,第1議題として,経済産業省の木村範尋METIオブザーバーから「グリーントランス・フォーメーション(GX)実現に向けた取組みについて」と題する講演を,第2議題として,経団連エネルギー対策本部の須永逸人オブザーバーから「カーボンニュートラルに向けた経団連の取り組み」と題するご講演をいただき,委員およびオブザーバー各位によって両議題に関する活発な意見交換がなされた。 本報告書に掲載される講演および報告資料は,第1回研究委員会および第2回研究委員会における報告内容である。下火になったとはいえコロナ禍およびロシアによるウクライナ侵攻継続下にもかかわらず,ご講演をしていただいた講師諸氏,ならびに活発な議論に参加していただいた委員およびオブザーバーの皆様に,心より感謝申し上げます。 2.「新しい資本主義」の解釈の錯覚 岸田首相が,就任当初提唱し喧伝していた「新しい資本主義」のネーミングに関し,日本経済新聞2022年6月12 日の朝刊5面に興味深い記事が載っていた。現・官房副長官の木原誠二氏らが,一昨年の総裁選のキャッチフレーズとして,①合本資本主義,②公益・公共資本主義,③持続可能な資本主義,④誰一人取り残さない資本主義を列挙し,岸田氏に提案したのだそうである。①は渋沢栄一の「合本主義」をひいたものであり,②は公助・共助の重視,③は成長と環境維持の同時達成,④はジョン・ロールズの「格差原理」を想起するが,これら4つを合わせると,岸田首相の描く新しい資本主義の特徴が見えてくる。 私はこのネーミングを知った当初,「新しい」を文字どおりに解釈し,今に至る資本主義による弊害を反省し,ラトゥ-シュの「脱成長」社会を目指す資本主義なのかと錯覚していた。マレイ・ ブクチンによれば,「人間の歴史のなかで現れた最も有害な社会秩序である現代資本主義は,人間の「進歩」を激しい競争や対抗関係と同一視する。また,社会的地位を強欲で際限のない蓄積と同一視し,そして最も人格的な諸価値を貪欲や利己主義と同一視し,明示的に販売と利潤のためになされる商品生産をほとんどすべての経済的および芸術的な努力の原動力とみなし,利潤と富裕化を社会生活の存在理由とみなすのである」 (注1) という。 さらに,「(以前においては,)技術は,・・・主として職人的な見地から,大量生産だけでなく工芸的な熟練に対する鋭い目をもって研究された。・・・資本主義がこれらの目標をゆがめて,理性を,高潔な知性よりもむしろ効率に焦点を置いた過酷な産業的合理主義に還元した」(注2)という(注3)。 3.「豊かさ」の別指向――環境問題は公共社会のあり方の問題でもある 「新しい資本主義」という言葉を聞いて私が思い浮かべたのは,世界でもっとも貧しい大統領として知られる,ウルグアイ第40代大統領であったホセ・ムヒカが,2012年にリオ会議で行った有名なスピーチであった。 ホセ・ムヒカは,そのスピーチで,「持続可能な発展と世界の貧困をなくすことは,現在の富裕な国々の発展と消費モデルを真似することなのか」と問いかける。・・・我々の前に立つ巨大な危機問題は,環境危機ではなく政治的な危機問題なのだ。・・・消費が社会のモーターになっている世界では,私たちは消費をひたすら早く,多くしなくてはならない。消費が止まれば経済が麻痺し,経済が麻痺すれば,”不況のお化け”がみんなの前に現れる。・・・人がもっと働くため,もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならない。・・・悪循環の中にいる。・・・これは紛れもなく政治問題である。・・・「貧乏な人とは,少ししか持っていない人ではなく,無限の欲があり,いくらあっても満足しない人のことだ。」これは,この議論にとっての文化的なキー・ポイントだと思う。・・・発展は幸福を阻害するものであってはいけない。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはならない。愛を育むこと,人間関係を築くこと,子どもを育てること,友達を持つこと,そして必要最低限のものを持つこと。発展は,これらをもたらすべきことなのだ。幸福が私たちのもっとも大切なものだからである。環境のために闘うのであれば,人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であることを覚えておかなくてはならない」(注4)。 このムヒカ元大統領のスピーチ・思想から私たちは何を学ぶべきなのであろうか。地球温暖化・環境問題の解決は,科学・技術の進歩・普及とは別に,(あるいは同時かもしれないが)一人ひとりの消費節約指向――個々人の環境に対する道徳心が必要であることを示唆している。そして,これを大統領として政治・経済・社会問題であると言っているのは,人間社会のあり様を変更する国家政策が必要と考えているからだ。すなわち,産業革命以降,「経済的豊かさこそが「効用」であり,それの最大化が公共哲学上の目指す方向とする「表面的な功利主義」を援用する消費経済社会からの脱却」によって,しかも,消費節約を義務と認識するのではなく,心の豊かさと,「コミュニティの一員として,他者とのコミュニケーションを通じて自己の存在を認識する」という人間の本性から「幸福」の状態を定義して,それの最大化を目指す社会の構築こそが,「持続可能な発展」の意味であるとしているからである。 豊かとなった先進国の住民にとって,一人ひとりの節約指向の実践,経済的すなわち購買力の源泉である貨幣獲得こそが豊かさであるとする社会の慣習のなかで生活してきた人々が「豊かさ」の意味を転換することは不可能に近い。ホセ・ムヒカ元大統領の目標遂行は,心に響いても実行は困難であろう。では,この地球の生態系にとって大きな脅威となっている人口増加,貧困,工業化,それの担い手である企業などの経済主体,そしてその構成要素である個々人による環境破壊を減らし,人間社会が持続するために,私たちはどのような目標をもって人生を送り,日々の生活様式を確立していくべきなのか。困った時には先達に学ぶ。そこで,私は,紀元前384年から322年に生きたアリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読むことにした(注5)。 4.ニコマコス倫理学の概要 ホセ・ムヒカ元大統領は,「発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはならない。・・・幸福が私たちのもっとも大切なものだからである」と言った。では,幸福とは何なのであろうか。アリストテレスが想定している幸福について学ぶことにしよう。 4-1 幸福とは何か-徳に基づく魂の活動 「幸福とは,ある人々には徳と考えられ,他の人々には思慮,また別の人々には何らかの知恵と考えられており,さらにある人々はそれらに,あるいはそれらのどれかに快楽がつけ加わったもの,もしくは快楽を伴ったものが幸福だと考えられているからである。しかしまた,幸福の要因として外的な好条件をつけ加える人たちもいる」(注6)。しかし,アリストテレスは,「人間にとっての善とは,徳に基づく魂の活動である」(注7)とし,「完全な徳に基づいて活動し,しかも外的な善を時おりにではなく,全生涯にわたって十分に兼ね備えている人を,幸福な人と呼んで何の差し支えがあろうか」(注8)というのである。 そこで,「幸福とは完全な徳に基づく,魂のある種の活動である以上,われわれは次に徳について考察しなくてはならないであろう」(注9)として,徳についての考察を進める。「徳には,思考に関するものと,性格に関するものとがあり,「知恵(ソピアー)」,「理解力(シュネシス)」,「思慮(プロネーシス)」をわれわれは[思考の徳(ディアノエーティケー・アレテー)]と言い,それに対して「気前のよさ(エレウテリオテース)」や「節制(ソープロシュネー)」を[性格の徳(エーティケー・アレテー)]と言っているからである。われわれは,人々のさまざまな魂の状態のうち賞賛に値するものを,徳と呼んでいる」(注10)。 なお,上記( )内に記述されている古代ギリシア語の日本語読みの「「アレテー」という語は,「徳」と訳されることもあれば,「卓越性」とか「力量」と訳されることもある。この語は,何らかの事物が,その本来の機能をすぐれた仕方で遂行することができる状態へと高められていることを意味する。・・・人間一人一人もまた,「徳」という「力量」を身につけることによって,人間としてより充実した幸福な人生を送ることができるようになる」(注11)のである。 4-2.[性格の徳]と中庸説 アリストテレスは,「徳とは,「選択にかかわる性格の状態(ヘクシス・プロアイレティケー)なのであり,その本質はわれわれとの関係における「中庸(メソテース)」にある,ということになるが,その場合の中庸とは,「道理(ロゴス)」によって,しかも思慮ある人が中庸を規定するのに用いるであろうような「道理」によって規定されたものなのである」(注12)とする。そこで,徳が中庸であるか否かを確認するために個別的事例を検討するのである。表1は,訳者注にある一覧表に,本文を参照して「個別的事例項目」などを追加記入したものである(注13)。 人の感情や行為,そのような感情や行為をする人たちに対する評価が,アリストテレスの時代と現代の私たちのそれらとが,ほとんど同じであることを確認し,とても興味深いのである。 表1 (性格の)徳と悪徳の一覧表
☆: 身近にいる人たちに起こる出来事について感じられる苦痛と快楽 中庸という言葉の意味を理解するために,もう少しアリストテレスの説明を読むことにしよう。 「[性格の徳]とは情念と行為にかかわるものであるが,情念や行為には超過と不足,中間ということが認められるからである。たとえば,恐れること,自信のあること,欲すること,怒ること,憐れむこと,一般に快楽を覚えたり,苦痛を感じたりすることには,多すぎることや少なすぎることが認められるのであって,どちらの場合も良くないのである。けれども,しかるべき時に,しかるべきものについて,しかるべき人々に対して,しかるべきことのために,しかるべき仕方でこうした情念を感じることは,中間の最善のことであり,これこそまさに徳に固有のことなのである。同様にまた,行為に関しても超過と不足,中間が見られるのである。そして,徳は情念と行為にかかわっており,情念と行為における超過と不足は誤っているけれども,中間は賞賛され,正しいあり方をしているのである」(注14)。 この記述から推量すると,「中庸」とは「的を射ている」というニュアンスがあり,人として理想とする情念の発露,人間社会で出会う物事への最善の選択・対応という意味ではないかと思うのである。 4-3 [思考の徳]と正しい道理 次にアリストテレスが論じた[思考の徳]について見てみよう。 まず,「思慮とは,人間の善にかかわる行為をするところの,道理をそなえた,魂の真なる状態にほかならない」(注15)。「知性」は原理を直接把握する能力であり,直観的なものである」(注16)。そして,「知恵」とは,「知性」と結びついた「学問的知識」であり,「最も貴重な諸存在」を対象とする,いわば,「頭をもった学問的知識」ということになるであろう」(注17)という。 「思慮」は,人間的な事柄にかかわり,熟慮の対象となるものごとにかかわる。なぜなら,よく熟慮すること,とりわけこのことが,「思慮ある人」のはたらきであるとわれわれは主張するからである。・・・無条件によく熟慮する人とは,行為において達成されるところの,人間にとって最善のものを,理知的な思考に基づいて目指す人のことである」(注18)。 ところで,われわれは,しばしば「あの人には品位がある。あの人は見識ある人だ」と評して,畏敬の念を持ち,そしてその人を尊敬する。アリストテレスによれば,「見識(グノーメー)」とは,品位のある人の「正しい判断(オルテー・クリシス)」にほかならない。・・・われわれはとりわけ「品位のある人」のことを,「思いやりのある見識をそなえた人(シュングノーモニコス)」と言い,またいくつかの事柄について「思いやりのある見識(シュングノーメー)」をもっていることが,「品位あること」だと言っていることである。そして,「思いやりのある見識」というのは,品位ある適正な事柄を正しく判断する「見識」にほかならない。ここで,「正しく判断する」とは,真実を判断する,という意味である」(注19)という。 この記述は,何かトートロジーのような気がしないではないが,「他人に対する思いやり」と,「真実を判断する」という意味があること留意したい。また,「思慮」と「性格の徳」との関係については,次の記述から理解できる。 「思慮」なしには本来の意味での善き人にはなりえないし,また[性格の徳]なしには,思慮ある人にはなりえないのである」(注20)。「思慮」なしには正しい選択はありえず,徳なしにも正しい選択はありえないであろう。なぜなら,徳は目的を定め,「思慮」は目的に至る事柄をわれわれに行なわせるからである」(注21)という。 なお,アリストテレスが論じた「幸福」に関する結論は,本稿の最後「6.幸福と観想活動」で紹介することにして,次節では「友愛」について紹介しようと思う。 5.友愛について アリストテレスのニコマコス倫理学で最も知られているのは「友愛」ではないかと思う。そこで,この「友愛」について,本節で詳細に検討することにしよう。 5-1 友愛の条件と3つの種類 まず,友愛の条件についての記述はこうである。 「すべてのものが愛されるのではなく,愛されるものだけが愛されるのであって,愛されるものとは,(1)善きものであるか,(2)快いものであるか,(3)有用なものであるかのいずれかだと考えられるからである」(注22)。そして,「友であるためには,先に述べられた3つのどれか1つによって,互いに対して行為を抱き,かつ,互いの善を願い,しかもそうしたことが互いに気づかれていなければならないのである」(注23)という。 友愛には,友愛の生まれる理由(根拠)によって,「有用性に基づく友愛」,「快楽に基づく友愛」,「徳に基づく友愛」の3種類がある。これら3種類の友愛についてアリストテレスは,次のように考察している。 「有用性のゆえに互いに愛し合っている人たちは,相手を,相手の人そのものとして愛しているのではなくて,相手から自分自身に何か善いものが生じるかぎりにおいて愛しているのである。快楽のゆえに愛している人も同様である。たとえば,そのような人たちは,機知に富む人たちを,その人たちが特定の性質であることによって好むのではなくて,もっぱら自分たちにとっては愉快だから好きなのである。したがって,有用性のゆえに愛する人たちは自分にとって善のゆえに相手に愛情を抱いており,また快楽のゆえに愛する人たちは,自分にとって快いがゆえに相手に愛情を抱いているのであって,そうした愛情というのは,愛される人が愛される人であるかぎりにおいてではなく,相手が有用であったり,快かったりするかぎりにおいて,抱かれているものなのである」(注24)。 「完全な友愛とは,徳において互いに似ている善き人々どうしの友愛である。なぜなら,そのような人たちは,善き人々であるかぎり,善きものに対して,同様な仕方で願望するからであり,また彼らは,ほかでもなく彼ら自身に基づいて善き人たちだからである。しかるに,友に対して善きものを,友のために願う人たちは,だれよりも互いに友である,というのも,彼らがこのような態度をとるのは,彼ら自身のあり方のゆえであり,付帯的な仕方によるものではないからである」(注25)。 この完全な友愛,徳に基づく友愛には重要な性質がある。それが「愛されることと愛することの関係」である。「友愛は,愛されることよりも,愛することにその本質があると考えられる。・・・友愛が・・・愛することにかかっているとすれば,また事実,友を愛する人たちは賞賛されるのだから,愛することは,友である人々の徳であると思われるのであり,したがって,愛することがそれぞれの人の価値に即して行なわれる友人たちどうしは,永続的な友の間柄であるばかりか,彼らの友愛もまた永続的なのである。したがって,価値に即した愛し方をすれば,等しくない人たちでさえ最大限互いに友になりうるであろう。なぜなら,その場合,彼らの関係が等しくされるからである。 等しさと類似性こそが友愛であって,とりわけ徳の点で似ている人たちの類似性はそうなのである。・・・すなわち,自分でも過ちをおかさず,友にもそれを許さないことが,善き人たちの特質なのである」(注26)。 私たちは,人と人との関係性のなかで生きている。そして,日頃,友人と思っている人のことを念頭に,その理由についてしばし考えてみると,ここでアリストテレスが分類した3種類の友愛のどれに該当しているのかが見えてきて,愕然とするのである。徳に基づく友愛関係にある人を本当にもっているのか。有用性や快楽の故に友人リストに入れているのではないのか。その人の見栄えの美しさや機知に富む会話が自分にとっての心地好さをもたらす故にとか,その人の地位や能力・知識が利用できるという理由で友人リストに入れているのではないか。 一方,心温まる映画や芝居,小説のなかで登場する社会的地位を超えた友情関係がなぜ私たちに感動を与えるのかを考えると,それはアリストテレスのいう「徳に基づく友愛」関係なのであって,彼らは内面的に互いの価値が等しい関係にあるからである。基本的人権の一つである「人の平等」が実現しているからなのである。さらに,徳に基づく友愛は,自分のみならず相手にも過ちを許さないというお節介なところもあるのである。 5-2 公共社会と友愛 私たちの社会は,能力,知識,地位,富,権力等々,あらゆる事項で不平等である。もちろんアリストテレスの時代も同様であった。次の記述は,現代社会における公共哲学・公共政策としても示唆に富んでいる。 すなわち,「よりすぐれた人は,自分がより多くのものを得ることがふさわしいと考えている。なぜなら,善き人にはより多くのものが配分されてしかるべきだからである。同様のことは,より有益な人についても言える。なぜなら,無用の者は等しい取り分を得てはならない,と言われているからである。・・・しかし,困窮している人,より劣っている人は逆の考え方をする。というのは,困窮する人々を援助するのが,すぐれた友のなすべきことだからである。・・・どちらにも友愛に基づいて,より多くのものを配分すべきであるが,しかし実際には,同じものを配分すべきではなく,まさっている者には名誉をより多く,困窮している者には利得をより多く配分すべきなのである。なぜなら,名誉は,徳と善行の褒章なのであり,利得は,困窮の補助だからである。 このとは,国制においてもそうであるように思われる。すなわち,共同体に善きものを何も提供しないような人には,名誉は与えられないのである。つまり,公共のために善を行なう人には公共的なものが与えられるが,名誉とは公共的なものにほかならない。実際,共同体からお金を得ることと,名誉を与えられることが同時におこなわれることはありえないのである」(注27)。 5-3 協調と友愛 私たち日本人にとって「協調」という言葉は肯定的に捉えられている。「聖徳太子の17条の憲法」を持ち出して日本文化の特徴の1つであるといっても言い過ぎではないのかもしれない。では,アリストテレスはどのように考えていたのであろうか。 「協調は,一般的に言われているように,明らかに「社会的な友愛」なのである。なぜなら,協調は全体にとって利益になるもの,生活に関係するものにかかわっているからである。 そして,このような協調は,品位ある人たちの間に見出される。なぜなら,彼らはいわば自分の心を1つにしているので,自分自身とも,お互いとも協調しており,・・・正しいこと,利益になることを願望し,共同でそれらの達成を目指すからである。 ところが,低劣な人たちの方は,彼らが友になるときと同様,わずかの程度しか互いに協調することができず,彼らは利益になることにおいては,より多くのものを手に入れようとして貪欲であるが,労苦や公共奉仕の点では,熱意が不足しているのである。また,低劣な人たちはそれぞれ,自分自身のために利益となるものを望んでいるので,隣人を問いただし,隣人のなすことを妨害しようとするのである。実際,共通の善は,人々がそれを気にかけなくなれば,たちまち破壊されるのである。こうして,低劣な人たちは分裂状態となり,互いに相手に正しいことをするよう強制するが,自分自身の方は当の正しいことを行なう気持ちをもたない,という結果になる」(注28)。 アリストテレスの時代の人間社会にも現代の社会と同じように低劣な人が多くいて,困ったことだという憤りの声が聞こえてきそうである。 5-4 幸福な人は友を必要とするか 前述したように,ホセ・ムヒカ元大統領は友達を持つことが幸福の一つの条件と言っていた。では,アリストテレスはどのように考えていたのであろうか。 「友とは, (1)善あるいは善に見えるものを,自分の友のために望み,かつ実際に行なうような人 (2)自分の友が存在し生きることを,その友のために望むような人 (3)相手と一緒に過ごすような人 (4)相手と同じものを選ぶような人 (5)自分の友と,一緒に苦しみ,一緒によろこぶような人と考えられている」(注29)。 そして,アリストテレスもまた,友の存在はあらゆる場合に望ましいと考えている。以下の文章は長文で恐縮であるが,記載することにしよう。なぜなら,述べられている内容が,人間社会における友としての心構え,振る舞い,生き方を疑問の余地なく示していて,心に留めておきたいと思ったからである。読者諸兄もきっと読まれて納得されるに違いないと思う。 「友の存在はしかし,何か快苦の混じり合ったもののように思われる。すなわち,友を見ることはそれ自体で快く,とりわけ不運なときにはそうであり,人が苦しまないための何らかの補助となるのである(なぜなら,友というのは,もし彼が臨機応変の人であるならば,その姿を見せることによって,あるいは語りかけることによって,人を慰めてくれるからである。実際,友は相手の性格や,相手が何をよろこび,何に苦しむかを知っているのである)。とはいえ,自分自身の不運に友が苦しんでくれているのを察知するのは,だれにとってもやはり苦痛である。それというのも,友に対して自分が苦痛の原因になることは,だれもが避けたいことだからである。・・・ 一方,幸運における友の存在は,われわれが時を過ごすのを快いものにし,友がわれわれ自身のもろもろの善きものによろこびを感じてくれているという心地よい思いを,われわれにもたらすのでる。それゆえ,われわれは幸運に際しては,それを分かち合うために,友を熱心に呼び寄せなければならず(なぜなら,人に善をなす行為は美しいからである),不運に際しては,友を呼び寄せるのはためらわねばならない,と考えられるであろう。というのは,災いを分け与えるのはできる限り少なくしなければならないからであって,ここから,「不運は,私だけで十分だ」と言われるのである。つまり,とりわけ人が友を呼び寄せてよいときというのは,友がほんのわずかの不便を忍ぶだけで,こちらに大きな利益をもたらしてくれる可能性のある場合なのである。 しかし逆に,不運な人たちのところへは,たとえ呼ばれなくても,熱心に駆けつけるのが,友としてふさわしい行為であり(なぜなら,相手によくすることは,とりわけ,援助が必要であるにもかかわらず,あえてそれを要求しなかった人々に対してそうするのは,友としてふさわしい行為だからである。実際,そうした行為は,どちらの側にとっても,より美しく,より快いのである),他方,自分の友が幸運な場合には,人は今度はその友に熱心に協力すべきであるが(なぜなら,こうしたことのためにも友は必要とされるからである),しかし自分がよくされることに関してはのんびりと無頓着にしているべきである。なぜなら,利益を与えられるのに熱心になるのは,みっともないことだからである。けれどもわれわれは,そうした利益を人がはねつける場合に見られるいやみな印象は,たぶん避けなければならないであろう」(注30)。 6.幸福と観想活動 いよいよアリストテレスが「ニコマコス倫理学」で語った幸福とは何かの結論を紹介しよう。それは,「観想活動」である。 「幸福が徳に基づく活動であるとすれば,その活動とは,最もすぐれた徳に基づくものであると考えるのが,理にかなっている。しかるに,最もすぐれた徳とは,最善のものの徳であろう。したがって,その最善のものが「知性(ヌース)」であるにせよ,何かほかのものであるにせよ,―――このものこそ,それ自体もまた神的なものであるがゆえに,あるいはわれわれの内にあるもののなかで最も神的なものであるがゆえに,自然本性に基づいて,支配し,導き,そして美しく神的なものごとについて思いをめぐらす,と考えられるところのものだが―――,このような最善のものが,それに固有の徳に基づいて行なう活動こそ,最も完全な幸福であるだろう。ところで,この活動が観想活動・・・・なぜなら,観想活動は,最もすぐれた活動だからである(知性はわれわれの内にあるもののなかで最もすぐれたものであるばかりか,知性のかかわる対象も,認識されるもののなかで最もすぐれたものなのだから)。・・・・・ またわれわれは,幸福には快楽が混ぜ合わされていなければならないと考えるが,徳に基づく活動のなかでも,「知恵(ソピアー)」に基づく活動こそ最も快いものと一致して認められている。ともかく,知恵を愛する哲学の営みは,その快楽の純粋さと確実性の点で驚くべきものをもっていると思われるのである。そして当然,探究する人たちよりも知っている人たちにとっての方が,哲学の営みはいっそう快いのである。・・・かくして,知性に基づく生活こそ,まさに最も幸福な生活なのである」(注31)。 訳者の解説によると,「観想」とは,「観る」,「見つめる」,「眺める」ということであり,それの原語の日本語読みは「テオーリア」で「理論(theory)」の語源である。この言葉は,ギリシア語で「観察」,「考察」,「研究」,「見物」,「視察」など広い意味をもっていたが。アリストテレスは,上記のように限定的に用いている。(注32) 私のように,大学卒業後,約50年経過した今日まで大学人としてのみ生きてきた人間からすると,また,その大学人としての仕事および日常生活は,私にとって天職ではなかったかと思えるので,アリストテレスの幸福に関する結論に同意してしまう。しかし,若く人間社会の荒波の真っ只中にいる読者,また大学人ではなくビジネス界に身を置いてきた読者からすると,この「徳に基づく活動のなかでも,「知恵(ソピアー)」に基づく活動こそ最も快いもの」とするアリストテレスの結論に諸手を挙げて賛成というわけにはいかないであろう。アリストテレスが約2400年前に大学者としての満足できる生き方をしたことが,結論に影響していると考えるのは的外れではないであろう。 次の記述は,アリストテレスが「神からの愛」に言及し,結論を補強しているところである。暗澹たるの現代の情勢を観るに付け,「神を恐れよ」という警鐘を再確認する。 「知性に基づいて活動し,知性を世話する人は,最善の状態にあり,最も神に愛される人だと思われる。なぜなら,もし人間的な事柄に対して,神々から何らかの配慮が行なわれるとすれば,また実際そのように考えられているのだが,その場合,神々が,自分たちと最も親近性のある最善のものに(それは知性のことであるが)よろこびを覚え,さらに神々が,その最善のものにとりわけ愛着を寄せる人々,しかもそれを尊重する人々のことを,神々に愛されるようなさまざまなものごとに配慮しながら,正しく,かつ美しく行為する人たちと見なして,そうした人たちに報いるというのは,当然のことと考えられるからである。そして,こうした条件のすべてが,とりわけ知恵ある人にそなわっているのは,もとより明らかである。知恵ある人は,それゆえ,神に最も愛される人なのである。また,その同じ人が,最も幸福であるのも疑いを入れないであろう。したがって,このような仕方で考えてみても,知恵ある人がだれよりも幸福である,ということになるだろう」(注33)。 訳者がその解説の最後で紹介しているアリストテレスの次の文章は,古希を迎えた私にとって,極めて含蓄深いものであった。 「品位ある人は,自分自身と共に過ごすことを望むのである。そうすることが,快いからである。すなわち,過去になされたことの追憶は彼によろこびを与え,未来への希望は善きものであり,そのような追憶と希望は,彼にとって快いものだからである。しかも,彼の思考にとっては「観想の対象(テオーレーマ)」がふんだんにある」(注34)。 (注) (注1)ブクチン,マレイ著-藤堂真理子・戸田清・萩原なつ子訳(1996)『エコロジーと社会』白水社,60頁。 (注2)ブクチン著-藤堂・戸田・萩原訳(1996),220-221頁,( )は黒川補筆。 (注3)黒川行治(2022)「「新しい資本主義」とスローファッション」『産業経理』(巻頭言)Vol.82,No.2(2022年7月),3頁を一部抜粋・加筆。 (注4)佐藤美由紀(2015)『ホセ・ムヒカの言葉』双葉社,3-11頁(原訳は打村明氏)を抜粋・要約、語調を変更。 (注5)黒川行治(2017)『会計と社会 公共会計学論考』慶應義塾大学出版会,第20章8節を一部抜粋・加筆。 (注6)アリストテレス著-朴 一功訳(2002)『ニコマコス倫理学』(京都大学学術出版会,32頁。 (注7)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),28-29頁。 (注8)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),44頁。 (注9)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),48頁。 (注10)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),53頁。 (注11)山本芳久著(2017)『トマス・アクィナス 理性と神秘』岩波新書,53-54頁。なお, トマス・アクィナスは,『神学大全』のなかで,「賢慮」,「正義」,「勇気」,「節制」の4つ徳を「枢要徳」として,アリストテレスの徳論を受け継いでいる。 (注12)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),74頁。 (注13)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),77頁の訳者注(1)と本文76-82頁の記述から黒川が個別的事例項目を追加したもの。 (注14)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),73頁。 (注15)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),266頁。 (注16)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),269頁注(3)。 (注17)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),270頁。271頁注(2)によると,神その他の神的な存在が念頭に置かれている。また,271頁注(4)によると,このような仕方で意味を限定された「知恵(ソピアー)」とは,制作にも行為にもかかわらない,純然たる観想知である。 (注18)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),272頁。 (注19)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),283-284頁。 (注20)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),293頁。 (注21)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),294頁。 (注22)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),358頁。 (注23)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),360頁。 (注24)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),360-361頁。 (注25)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),362-363頁。 (注26)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),378頁。 (注27)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),398-399頁。 (注28)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),422頁。 (注29)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),413-414頁の記述を箇条書きに抜粋。 (注30)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),442-444頁。 (注31)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),474-478頁。 (注32)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),訳者解説,565頁。 (注33)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),484-485頁。 (注34)アリストテレス著-朴 一功訳(2002),415頁。 ■ 第2章 国内外の政策動向 ■
■ 第3章 気候変動にかかわるファイナンスについて ■
■ 第4章 産業界の動向について ■
■ 第5章 議事要旨 ■ |